《訳し方によるニュアンスの違い》
前回の記事では、
朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや。
有朋自遠方来、不亦楽乎
・・・・・・という一節の、
「有朋自遠方来」という言葉の訳し方について、
「朋有り遠方より来たる」と読む場合[金谷訳(岩波文庫)など」は、
「同じことを学ぶ仲間が、遠いところからやって来る」、
「友朋(ゆうほう)遠方より来たる」の場合[貝塚訳(中公文庫)など]は、
「さまざまな友人や仲間が、遠いところからやって来る」、
「朋遠方より来たる有り」[加地訳(講談社学術文庫)など]だと、
「同じことを学ぶ仲間が、遠いところからやって来ることが有る」
・・・・・・などの訳例をピックアップしました。
そして、「有朋自遠方来」という言葉の正確な解釈は一つであり、本来の意味は一つであるはずですから、上記に取り上げた三つの書き下し文と現代語訳のうち、二つは間違ったものであるということになります。いや、もしかすると、三つの訳がすべて間違っているということも考えられます・・・・・・ということを書きました。
さらに、個人的には、どの訳を取っても、「不亦楽乎」という言葉の意味深さというものが失われてしまうような気がすることも書きました。ということで、今回は「有朋自遠方来」の正しい書き下し文と現代語訳というものを考えてみたいと思います。
《「不亦楽乎(また楽しからずや)」は、何が「楽しい」と言っているのか?》
「不亦楽乎(また楽しからずや)」という言葉は、「有り」と「来る」のいずれかに対応している言葉です。仲間が「有る」ことが楽しいのか、もしくは仲間が「来る」ことが楽しいのか、はたまた仲間が「来る」ことが「有る」から楽しいのか、さてさて、この中で正しい訳し方がどれなのか、気になるところです。
「そんなのは気にしないで、読み手のフィーリングにマッチする訳で良いんじゃないの?」と思ってしまえば簡単で楽です。しかし、「有朋自遠方来」の場合は、どの訳しを取っても大きな意味の違いは無いように思えますが、文章によっては意味合いが異なってしまう場合も多々ありまして、それを考える上でも『論語』の冒頭に記されている「有朋自遠方来」の解釈は有用だと考えるのです。
そして、「有朋自遠方来」の意味を知る上で重要だと思えるのが、「有」という字なのです。「有」の字は、『論語』の中にたびたび登場するのですが、その中でも[巻第二-里仁第四]の25章に記されている「必有鄰(隣)」という箇所が、「有朋自遠方来」の意味を知る上で参考になります。
《「朋有り」と「必ず隣有り」だと、「有」の意味は違う!?》
『論語』の[巻第二-里仁第四]の25章に記されているのは、
德は孤ならず、必ず鄰(隣:となり)あり。
德不孤、必有鄰
・・・・・・という言葉です。この一節は、次のように意訳されています。
「道徳のある者は孤立しない。きっと親しいなかまができる」[金谷訳(岩波文庫)」、
「德は孤立するものではない。必ず同類のものがこれに応じて聚(集:あつ)まってくる」[宇野訳(講談社学術文庫)]、
「人格のすぐれている人は、けっして独りではない。必ず‐その道を慕ってそのまわりに‐人が集まってくる」[加地訳(講談社学術文庫)]、
「道徳を守るものは、孤立しているように見えるがけっしてそうではない、きっとよき理解者の隣人があらわれるものだ」[貝塚訳(中公文庫)]、
「修養に心がければ、匿(かく)れていても孤立しているように見えるがけっしてそうではない、きっとよき理解者の隣人があらわれるものだ」[宮崎訳(岩波現代文庫)]、
「道徳は孤独であることはない。きっと同類を周辺にもつ」[吉川訳(朝日選書)]、
「有德者というものは決して孤立するものではなく、人には必ず隣人があるように、その人に共鳴する人がでてくるものだ」[吉田賢抗訳(明治書院)]、
・・・・・・以上が主だった意訳です。どの訳も個人的には違和感を感じるのですが、それは改めて書くとして話を進めます。
ところで、『論語』に書かれているのは今から2,200年以上も前の言葉を漢字という文字にしたものですから、一つひとつの文字が持つ意味には、今ほどのバラエティに富んだものではなかったはずです。言葉というものは、時代を経る中でバリエーションを持つようになるもので、漢和辞典にみる「有」という漢字も、論語が編纂された時代から現代に至るまでに、さまざまな意味が付け加えられてきたはずです。
だとすれば、「有朋自遠方来」に使われている「有」と「必有鄰(隣)」に使われている「有」が持つ意味には、大きな違いは無いと考えることが妥当でしょう。そういうワケで、「必有鄰(隣)」に使われている「有」の意味から「有朋自遠方来」を解釈すれば、「不亦楽乎(また楽しからずや)」という言葉が指し示す意味が明らかになると考えるのです。
ということで、二つの文章を比較すると、「有朋」が「朋(とも)有り」と読まれ、「有」が「朋(とも)」の存在を示すだけの意味で使われているのに比べると、「有鄰(隣)」が持つ意味には「できる」、「集まってくる」、「あらわれる」、「もつ」、「でてくる」など、さまざまな訳があります。
そして、これら「できる」、「集まってくる」、「あらわれる」、「もつ」、「でてくる」などの訳語に倣(なら)うと、「有朋自遠方来」の「有朋」を「朋ができる」、「朋が集まってくる」、「朋があらわれる」、「朋をもつ」、「朋がでてくる」などに訳すことができます。
これらの訳の中で最適なのはどれか、ということになるのですが、それは「有朋」に続く「自遠方来」という文脈から選ぶことができるでしょう。「自遠方来」という言葉は、「遠いところからやって来る」と訳されています。しかし、全体の文脈から考えると、「(近くだけではなく)遠いところからもやって来る」と読むべきでしょう。そして、これが「朋」を就職する言葉となります。
《「不亦楽乎(また楽しからずや)」が指し示す楽しいこととは?》
では、「自遠方来」‐「遠いところからもやって来る」という言葉にピッタリとしそうな「有朋」の訳はどれでしょう。先ほど述べた「朋ができる」、「朋が集まってくる」、「朋があらわれる」、「朋をもつ」、「朋がでてくる」という言葉とつなげると、次のようになります。
1.「(近くだけではなく)遠いところからもやって来る朋ができる」
2.「(近くだけではなく)遠くからもやって来る朋が集まってくる」
3.「(近くだけではなく)遠くからもやって来る朋があらわれる」
4.「(近くだけではなく)遠くからもやって来る朋をもつ」
上記の中で2番目だけは文脈が不自然ではあるものの、
「朋ができる」、
「朋があらわれる」、
「朋を持つ」、すなわち、
「同門の仲間である“朋”を得ることができる」ということが語られているのであり、それを
「不亦楽乎(また楽しからずや)」と称賛しているのです。
ですから、「不亦楽乎(また楽しからずや)」という言葉が指し示す楽しいこととは、“朋”を有すること、つまり“朋”を得ることなのですね。
そして、有朋自遠方来、不亦楽乎の書き下し文と現代語訳にすると、
遠方よりも(自ら)来たる朋を有(う)る、亦た楽しからずや。
遠くからも(人が)やってきて朋となる、これもまた悦(よろこ)ばしいことではないか
・・・・・・という具合になるのでしょう。
書き下し文は漢文を理解するための日本的読み方として考案され、連綿と受け継がれてきたものですが、そのすべてが正しいものだと考えてしまうと、漢文で書かれた本来の意味が伝わりにくいこともあると思うのです。それを提起するという趣旨で、今回の記事を書いてみました。
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