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論語&その他の経書に関する備忘録!


by 01magier
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久しぶりの投稿になってしまった。
11ヶ月も未更新の状態を続けていた、自身のいい加減さに驚くやら恥じ入るやら。
このまま、ブログそのものを削除ってことも考えたのだが、それでは逃げているみたいで気が済まぬ。

ただ、『論語』の日本語訳を記事にしているブログは他にもある。だから、同じようなことをしていても、見栄えが変わらんだろうし面白くもない。

何よりも、『論語』の各章を、逐一和訳して記事にすること自体、浅学な私には無理があるのだろう。

だから、私なりの解釈というか、勝手な想いを書き綴って記事にしようと思う。それも、『論語』だけではなく、その周辺にまで話題を広げて、思うことだけを記事にすれば、少しは更新頻度も上がるだろう。

本当は、書きたいことは一杯あるのだが、自分は文章を構成する能力にも作成する技能にも恵まれていないし、何よりも時間を管理する能力の無さに問題がある。

で、これを改善するために、一つの案を考えている。ここで文章にすると長くなるので、形が出来上がったところで報告するとしよう。

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# by 01magier | 2010-02-09 12:12 | 雑記・お知らせ!

本立ちて道生ず―孝と弟(悌)と仁の関係について!

《学而・第02章》
【白文(原文)】
有子曰、
其爲人也、孝弟而好犯上者、鮮矣。
不好犯上、而好作亂者、未之有也。
君子務本、本立而道生。
孝弟也者、其爲仁之本與。

【書き下し文】
有子(ユウシ)(イワ)く、
(ソ)の人と為(ナ)りや、
孝弟(コウテイ)にして上(カミ)を犯(オカ)すことを好む者は鮮(スク)なし。
上を犯すことを好まずして亂[乱]を作(ナ)すことを好む者は、
(イマ)だこれ有らざるなり。
君子は本(モト)を努(ツト)む。本立ちて道(ミチ)(ショウ)ず。
孝弟(コウテイ)なる者は其れ仁(ジン)の本(モト)たるか。

【現代語訳(私家版)】
有子(有若:孔子の門弟)が言われた、
その人柄や行いが、親を敬い仕えて、年長者に対しても謙虚で素直である者が、目上に逆らうというようなことは、まずはしないであろう。
目上に逆らおうとしない者が、混乱を招くようなことを画策したことも、これまでに有りはしない。
君子とは、本義や真実を求めることが責務であり、本義に立脚し、これを拠りどころとして道が生じる。
孝弟というものは、(道が生じていてこそ)仁という徳の本に通じるのであろう。


本業の忙しさにかまけて、久々の更新です。第01章と同様に、この後に「解釈編」の記事をアップするよていです。ゆっくりとし過ぎたペースを、もう少しアップできればと考えておりますので、よろしくお付き合い下さいますようお願い申し上げます。

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# by 01magier | 2009-03-18 17:36 | 学而第一(巻第一)

《訳し方によるニュアンスの違い》

前回の記事では、

朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや。
有朋自遠方来、不亦楽乎
・・・・・・という一節の、「有朋自遠方来」という言葉の訳し方について、
「朋有り遠方より来たる」と読む場合[金谷訳(岩波文庫)など」は、
「同じことを学ぶ仲間が、遠いところからやって来る」

「友朋(ゆうほう)遠方より来たる」の場合[貝塚訳(中公文庫)など]は、
「さまざまな友人や仲間が、遠いところからやって来る」

「朋遠方より来たる有り」[加地訳(講談社学術文庫)など]だと、
「同じことを学ぶ仲間が、遠いところからやって来ることが有る」
・・・・・・などの訳例をピックアップしました。


そして、「有朋自遠方来」という言葉の正確な解釈は一つであり、本来の意味は一つであるはずですから、上記に取り上げた三つの書き下し文現代語訳のうち、二つは間違ったものであるということになります。いや、もしかすると、三つの訳がすべて間違っているということも考えられます・・・・・・ということを書きました。


さらに、個人的には、どの訳を取っても、「不亦楽乎」という言葉の意味深さというものが失われてしまうような気がすることも書きました。ということで、今回は「有朋自遠方来」の正しい書き下し文現代語訳というものを考えてみたいと思います。


《「不亦楽乎(また楽しからずや)」は、何が「楽しい」と言っているのか?》

「不亦楽乎(また楽しからずや)」という言葉は、「有り」「来る」のいずれかに対応している言葉です。仲間が「有る」ことが楽しいのか、もしくは仲間が「来る」ことが楽しいのか、はたまた仲間が「来る」ことが「有る」から楽しいのか、さてさて、この中で正しい訳し方がどれなのか、気になるところです。


「そんなのは気にしないで、読み手のフィーリングにマッチする訳で良いんじゃないの?」と思ってしまえば簡単で楽です。しかし、「有朋自遠方来」の場合は、どの訳しを取っても大きな意味の違いは無いように思えますが、文章によっては意味合いが異なってしまう場合も多々ありまして、それを考える上でも『論語』の冒頭に記されている「有朋自遠方来」の解釈は有用だと考えるのです。


そして、「有朋自遠方来」の意味を知る上で重要だと思えるのが、「有」という字なのです。「有」の字は、『論語』の中にたびたび登場するのですが、その中でも[巻第二-里仁第四]の25章に記されている「必有鄰(隣)」という箇所が、「有朋自遠方来」の意味を知る上で参考になります。


《「朋有り」と「必ず隣有り」だと、「有」の意味は違う!?》

『論語』の[巻第二-里仁第四]の25章に記されているのは、

德は孤ならず、必ず鄰(隣:となり)あり。
德不孤、必有鄰
・・・・・・という言葉です。この一節は、次のように意訳されています。
「道徳のある者は孤立しない。きっと親しいなかまができる[金谷訳(岩波文庫)」、

「德は孤立するものではない。必ず同類のものがこれに応じて聚(集:あつ)まってくる[宇野訳(講談社学術文庫)]、

「人格のすぐれている人は、けっして独りではない。必ず‐その道を慕ってそのまわりに‐人が集まってくる[加地訳(講談社学術文庫)]、

「道徳を守るものは、孤立しているように見えるがけっしてそうではない、きっとよき理解者の隣人があらわれるものだ」[貝塚訳(中公文庫)]、

「修養に心がければ、匿(かく)れていても孤立しているように見えるがけっしてそうではない、きっとよき理解者の隣人があらわれるものだ」[宮崎訳(岩波現代文庫)]、

「道徳は孤独であることはない。きっと同類を周辺にもつ[吉川訳(朝日選書)]、

「有德者というものは決して孤立するものではなく、人には必ず隣人があるように、その人に共鳴する人がでてくるものだ」[吉田賢抗訳(明治書院)]、
・・・・・・以上が主だった意訳です。どの訳も個人的には違和感を感じるのですが、それは改めて書くとして話を進めます。



ところで、『論語』に書かれているのは今から2,200年以上も前の言葉を漢字という文字にしたものですから、一つひとつの文字が持つ意味には、今ほどのバラエティに富んだものではなかったはずです。言葉というものは、時代を経る中でバリエーションを持つようになるもので、漢和辞典にみる「有」という漢字も、論語が編纂された時代から現代に至るまでに、さまざまな意味が付け加えられてきたはずです。


だとすれば、「有朋自遠方来」に使われている「有」「必有鄰(隣)」に使われている「有」が持つ意味には、大きな違いは無いと考えることが妥当でしょう。そういうワケで、「必有鄰(隣)」に使われている「有」の意味から「有朋自遠方来」を解釈すれば、「不亦楽乎(また楽しからずや)」という言葉が指し示す意味が明らかになると考えるのです。


ということで、二つの文章を比較すると、「有朋」が「朋(とも)有り」と読まれ、「有」「朋(とも)」の存在を示すだけの意味で使われているのに比べると、「有鄰(隣)」が持つ意味には「できる」、「集まってくる」、「あらわれる」、「もつ」、「でてくる」など、さまざまな訳があります。


そして、これら「できる」、「集まってくる」、「あらわれる」、「もつ」、「でてくる」などの訳語に倣(なら)うと、「有朋自遠方来」「有朋」を「朋ができる」、「朋が集まってくる」、「朋があらわれる」、「朋をもつ」、「朋がでてくる」などに訳すことができます。


これらの訳の中で最適なのはどれか、ということになるのですが、それは「有朋」に続く「自遠方来」という文脈から選ぶことができるでしょう。「自遠方来」という言葉は、「遠いところからやって来る」と訳されています。しかし、全体の文脈から考えると、「(近くだけではなく)遠いところからもやって来る」と読むべきでしょう。そして、これが「朋」を就職する言葉となります。


《「不亦楽乎(また楽しからずや)」が指し示す楽しいこととは?》

では、「自遠方来」「遠いところからもやって来る」という言葉にピッタリとしそうな「有朋」の訳はどれでしょう。先ほど述べた「朋ができる」、「朋が集まってくる」、「朋があらわれる」、「朋をもつ」、「朋がでてくる」という言葉とつなげると、次のようになります。

1.「(近くだけではなく)遠いところからもやって来る朋ができる」

2.「(近くだけではなく)遠くからもやって来る朋が集まってくる」

3.「(近くだけではなく)遠くからもやって来る朋があらわれる」

4.「(近くだけではなく)遠くからもやって来る朋をもつ」
上記の中で2番目だけは文脈が不自然ではあるものの、「朋ができる」「朋があらわれる」「朋を持つ」、すなわち、「同門の仲間である“朋”を得ることができる」ということが語られているのであり、それを「不亦楽乎(また楽しからずや)」と称賛しているのです。


ですから、「不亦楽乎(また楽しからずや)」という言葉が指し示す楽しいこととは、“朋”を有すること、つまり“朋”を得ることなのですね。


そして、有朋自遠方来、不亦楽乎書き下し文現代語訳にすると、

遠方よりも(自ら)来たる朋を有(う)る、亦た楽しからずや。
遠くからも(人が)やってきて朋となる、これもまた悦(よろこ)ばしいことではないか
・・・・・・という具合になるのでしょう。


書き下し文は漢文を理解するための日本的読み方として考案され、連綿と受け継がれてきたものですが、そのすべてが正しいものだと考えてしまうと、漢文で書かれた本来の意味が伝わりにくいこともあると思うのです。それを提起するという趣旨で、今回の記事を書いてみました。



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# by 01magier | 2009-01-26 19:14 | 学而第一(巻第一)

《書き下し文で漢文のニュアンスが変わる》

論語や漢詩などの漢文を、日本の言葉で読めるようにしたものが書き下し文です。中国の言葉を、同じ漢字文化を持つ日本語に置き換える書き下し文は、それを理解する上で有効な手段であるといえます。しかし、日本と中国の文法構造の違いを無視すると、訳し方が違ってきますし、解釈した内容も食い違った意味のものになってしまいます。

『論語』は、中学高校の授業で取り入れられていて、その冒頭部分も多くの人に知られています。その広く知られている部分を例に挙げて、書き下し文の違いというものに触れてみようというのが、今回の記事です。


《「有朋自遠方来、不亦楽乎」の解釈の違い》

朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや。

有朋自遠方来、不亦楽乎
・・・・・・この部分の現代語訳を、「友だちが遠い所からもたずねて来る、いかにも楽しいことだね」としているものが一般的というか大半ですね。この部分の書き下し文現代語訳について、どのようなものがあるかを検証してみましょう。

有は“友”の誤りであるとして、「友朋(ゆうほう)遠方より来たる」と読む書き下し文もありますが、「朋有り遠方より来たる」と読むほうが多いようです。また、「朋遠方より来たる有り」という読み方もあります。しかし、これらの書き下し文は、日本語の文法に影響された読み方だと思うのです。書き下し文は、日本語としての文法表現に合わせて考案されたものです。それによって、漢文そのものの文法構造が、損なわれた形の書き下し文が生み出されるという弊害も発生しているのですね。

漢文(白文)よりも、日本語として置き換えた場合の読みやすさに重点を置いた書き下し文に変換することによって、漢文で書かれていた本来のニュアンスが損なわれて、違った意味になって伝えられるというケースも少なくないのです。いわば、日本語として都合の良い、“我田引水”的な書き下し文ですね。「有朋自遠方来、不亦楽乎」は、まさにその例を示す文章なのです。では、従来の訳文を比較してみましょう。


《さまざまな書き下し文と解釈》

幾つかの辞書で“友”と“朋”の違いを調べてみると、同門の仲間を“朋”、志向が合う仲間を“友”として概ね解釈しています。同じ事柄を考えたり追求したり、あるいは同じ目的を推進する仲間が“朋”ということでしょうか。もう一方の“友”は、そういった目的とか事柄に関係なく、気が合う仲間を意味するのでしょう。そして、双方をまとめて“朋友”、あるいは“友朋”と表現するのですね。

従来の書き下し文にこれを当てはめて訳すと、

「朋有り遠方より来たる」と読む場合は、
「同じことを学ぶ仲間が、遠いところからやって来る」

「友朋(ゆうほう)遠方より来たる」の場合は、
「さまざまな友人や仲間が、遠いところからやって来る」

「朋遠方より来たる有り」だと、
「同じことを学ぶ仲間が、遠いところからやって来ることが有る」
・・・・・・というような現代語訳になります。

上記が一般的な書き下し文現代語訳で、それぞれに違ったニュアンスになります。しかし、「有朋自遠方来」という言葉が意味するものは本来一つですから、上記に取り上げた三つの書き下し文現代語訳のうち、二つは間違ったものであるはずです。いや、あるいは、三つとも間違った訳し方をしているのかもしれません。

個人的には、どの訳を取っても、「不亦楽乎」という言葉の意味深さというものが失われてしまうような気がするのです。ということで、「有朋自遠方来」の正しい書き下し文現代語訳というものを考えてみたいと思うのですが、記事が長くなりそうなので改めて書きます。


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# by 01magier | 2009-01-22 19:13 | 学而第一(巻第一)

《学ぶということと習うこと》

子曰く、学びて時に之を習う、亦た説ばしからず乎

冒頭の「学而時習之」の“学而”という言葉が「第一巻・第一」のタイトルになり、「学而編」と称されています。これに続く各編も、冒頭の言葉がタイトルになっています。

中学高校の漢文の時間に習った解釈としては、次のようなニュアンスだったと思います。
孔先生(孔子)のお言葉。
教わり学んだことを、折にふれて繰り返し復習して身につけていくと、そのたびに学んだことがよく理解できるから、いかにもうれしいものじゃないか!?

・・・・・・「予習も大切だが、復習することによって理解が深まるんだよ」って、先生に言われたような。

で、テストとなると、白文を“虫食い”にして、該当する感じを書かせたり、原文に返り点を打ったり、訓読文(書き下し文)にしたり、解釈文を書かせたりという次第で、漢文そのものの理解を深める学習というよりも、漢文の読み方、テクニックに偏った学習であったように思います。
漢文読解のテクニックも確かに必要ですが、正しく解釈して鑑賞するということを忘れては、理解の深さも変わってきます。

中国の儒学研究者である何晏(カアン)や朱子の解釈にまで及ばなくても、日本の学者の解説を読み比べるだけでも、論語の面白さに迫れるのではないかと思うのです。

そうすることで、文章を読み解くための豊かな思考回路が形成され、より柔軟な思考を可能にするのではないでしょうか。テストに必要な答え、いわゆる正答は一つですが、それだけでは新しい発想を生み出すための思考回路が形成されないと思うのです。

中間子理論でノーベル物理学賞を受賞された湯川秀樹先生(参照「ウィキペディア」:湯川秀樹)は、自伝の中で漢文の素養がその後の学問に役立ったということを述べておられます。論語の解釈については、湯川秀樹先生の兄である貝塚茂樹先生が書かれており、弟の小川珠樹先生も荻生徂徠の『論語徴』の訳注をされています。

それ以外にも、加地伸行先生や宮崎市定先生、吉川幸次郎先生、金谷治先生のものなど多数の論語訳注書がありますから、これらを参考にしながら鑑賞してみるというのも意義があるでしょう。

ところで、「学びて時に之を習う」の“ 時”を「時(とき)に」と訳したものが多いのですが、「時(ここ)に」として訳したものもあります。“時”のは時刻を意味とは別に、タイムリーにというような概念もあり、安岡正篤先生や貝塚茂樹先生などが「時(ここ)に」と訳されています。

安岡正篤先生は、さらに展開して、「学びて之を時習す」と読まれています。「時(とき)に」という訳は、適当な時期に復習するという意味に受け取られがちですが、「学即業」というカタチで、普段の生活や行いに生かす(活かす)ことを言い表したものでしょう。ということで、このブログの【書き下し文】(前回の記事「学びて時に之れを習う:『論語』学而第1‐01」)でも「学びて之を時習す」と書きました。

さて、「学びてこれを時習す」という部分ですが、学んだことを復習して覚えるということではないのです。「学習」するということは、覚えるとか記憶するという次元のものとは少し違うのですね。日本では、頭の中に刷り込むように、覚えさせたり暗記させたりすることが教育と考えられているようです。応用力や思考力を付けさせる教育もされてはいますが、同じ次元の中でのテクニックを説いているだけだと思うのです。

「学ぶ」ということの延長線上には、更なる疑問点の発見があります。そして、その疑問を解消するために、それまでに覚えたことを基に思考したり応用したりして思索し、仮説を立てて検証するという行為を繰り返すことで、一段高い次元に到達するワケです。例えるならば、ある意味自転車に乗ることができるようになった時とか、泳ぎを覚えた時の喜びのようなものではないでしょうか。

いくら教わっても乗ることができずに、教わったことを意識しながら繰り返しチャレンジすることによって乗りこなせるようになるということに通じると思うのです。

そして、それまでの「?」が、「!(そうか!)」に変わることというのは、単に理解できるようになったというだけではないでしょう。その人の頭脳の中に、新たな思考回路が構築されたということでもあって、そこから更なる思考が展開され、新たな可能性が開けるということにもなるんじゃないかと考えます。

この部分の解釈については、「哲義研究会」のメンバーのサイトでも、「論語を読む:学ぶことと習うこと」‐哲義繙無碌(てつぎはんぶろぐ)という記事を書いていますので、よろしければご覧ください。


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# by 01magier | 2009-01-22 19:01 | 学而第一(巻第一)